海苔に命を懸けた男の一代記
わが海苔人生
戦時統制時代に入る
その頃になると、日華事変が拡大して統制機運が出てきた。十五年になると平中も閉店せざるを得なくなり、ほかの店も十六年には全て店仕舞いの破目になってしまった。十五、六年になると、もうヤミをやる以外にないという状況になった。価格統制と企業合同の嵐が吹きまくって、商売どころの騒ぎではない。ヤミをやれば引っ張られる。生産はまだやっていたが……。
昭和十六年、太平洋戦争が始まった。その前年から海苔問屋は全て閉店を余儀なくされたが、生産は続けられていた。しかし、物価庁が公定価格、いわゆるマル公をつくった。一千枚三十七円五十銭以上では売ってはいけない、買ってもいけないという。とても商売など出来はしない。ヤミ商いなら別だが。だから企業合同して荷受組合に入る人以外は廃業せざるを得なかった。小売屋はいいのだ。公定価格さえ守っていれば。
昭和十五年に平中のおやじの中野さんが亡くなって、私が後を引き継いだのだが、そんな時代だからどう仕様もない。その頃の面白い話をしよう。統制が始まるという話が伝わると、海苔問屋業界には「統制とは何事だ」という声が起こった。東京の問屋はまだいいのだが、地方の問屋はさっぱり事情が判らない。そこで状況説明かたがた問屋による統制会社を作ろうという会合を聞いた。山本さんや島田由兵衛さんらが音頭をとって、全国の問屋が熱海の青木館に集まった。
しかし、大半の人には、まだ戦争と統制ということが理解できない。「俺たちの商売を取り上げるとはふざけるな」と怒るばかりなのだ。「戦争なのだから仕様がないじゃないか。農林省の上からの統制ではなく、何とかわれわれの力で統制会社を作ろうよ」と説得したのだが、なかなか判ってくれない。「日本海苔統制株式会社」という案を私が作ってもっていったのだが。ところが地方の問屋さんなどは、カバン持ちと称してステッキガールなどお連れになって来ている始末。戦争中だから少しは遠慮すると思っていたのだが何と十二人もがお連れ様付きだ。統制で商売が出来なくなるという瀬戸際なのに悠長なものだった。
だから、いくら説明しても全然判ってくれない。二日間会議を続けたが、地方の連中は「じゃあ、その統制会社は誰が頭になるんだ」という。「山本さんか、島田由兵衛さんが適任者だ」というと「飛んでもない。東京の連中に牛耳られてたまるか」というのだ。私らは「海苔屋が自主的に統制するのだよ。農林省も、海苔屋が統制会社を作るのならそれでいいが、もし纏まらなかったら農林省がやるといっている。それよりも、何とかわれわれが自主的にやろうじゃないか」と、口を酸っばくして説得したが、結局は駄目だった。お役所による統制会社など作られたら、お役人の格好の天下り先にされてしまうことは目に見えているのに、とうとう判ってはもらえなかった。世の中って難しいものだとつくづく思ったものだ。
海苔問屋による自主的な統制会社を作ろうという私たちの努力は遂に水泡に帰してしまった。事態がそれほどせっぱ詰まっているとは思ってもらえなかったのだろう。何しろ箒や火叩きで焼痩弾の雨に立ち向かおうとした国民だからね。海苔問屋の連中も「俺たちはこれだけ土地がある、これだけカネを持っている。売り食いしたって一生食べていける」というわけだ。「一生って何年ですか ? 」と聞くと、生意気だってえらく怒られてしまった。私はいい返してやった。「生意気じゃあありませんよ。世界情勢はこうだから、といって農林省が教えてくれているんですよ。自主統制しませんか。是非あなた方にやって頂きたいといっているんですよ」とね。
それより前のことだが、西村健次郎さんがニューヨークから帰ってきて、水産物の統制規則を作ろうとした。その時もいろいろと手を尽くして、やっと海苔と鰹節だけは除外してもらった。公定価格を決めようという時も「ちょっと待って下さい。われわれは、お役所に迷惑を掛けるようなことはしませんから」といって昭和十五年まで伸ばしてもらったし、入札もやっていた。それも十六年にはダメになってしまったが、東京の連中は随分苦労しているのだ。
しかし、われわれの苦労も空しく、十六年には完全に農林省の統制下に入れられてしまった。同年、物価庁は公定価格を制定した。もう、それでおしまいだ。農林省は「海苔屋がいうことを聞かずに纏まらなかったのだから、農林省が日本海苔配給統制組合を作るといって、統制組合が日本橋小網町の朝鮮海苔販売会社の跡に誕生した。そして十七年には全国海苔販売統制組合と改称した。東京はもっと早く、十五年には問屋組合と仲買組合を一本にして東京海苔卸商組合を作り、山本泰介さんが理事長になっていた。十六年になって私がいた平中も廃業したので、平中の店に組合を移した。
あの頃の官僚というか役人ときたら凄いものだった。「自主的に組合を作れと、折角あんなにいったのに、いうことを聞かないからダメなのだ」と散々にいうのだ。そこで今度は私が開き直って「冗談いうな。あなた方は、ただ数字を並べるだけだろう。現物を扱えるわけじゃあるまい。荷受はわれわれがやる」といってやった。どうせ天下りの役人の給料が出るだけマージンの辻棲を合わせればいいのだから。結局、現物は一切われわれだけで扱うことになり、農林省は全国配給割当資料を作ってもらうだけだった。
いよいよ統制下の海苔商いが始まった。数字は農林省が作るが、全国の荷受はわれわれ東京府海苔荷受組合がやることになった。天下りも許さなかった。数字は全国海苔販売統制組合にいる天下りが作ればいい、というわけだ。全国販売統制組合には、元朝鮮総督府の専売局長以下随分大勢の天下りがいた。そんなわけで、荷物は一切東京荷受組合が受けるが、価格は全部マル公だ。等級は一、二、三等の三つだが、産地別の一、二、三等だから、深川、大森など特別いい浜の海苔には特等、マル特がついた。私は、東京の海苔は東京の人が食べ、地方の人は、その地方で採れた海苔を食べればいい、という考えだったが、東京湾内の海苔を集めるのには随分と苦労した。どこの海苔も全部同じ値段なのだからね。ところが、地方の問屋連中は、東京のいい海苔を寄越せ寄越せといってくる。私は「冗談じゃない。あなた方は統制が始まる時に動きもしない、協力もしないで、今になっていい海苔を寄越せといったってそれは無理だ」と怒鳴りつけてやった。「九州でも広島でも伊勢でも、買えるだけいいじゃないか」というわけだ。もう、その頃は朝鮮海苔は入ってこなくなっていた。昭和十八年に一隻入っただけだった。船もないし、魚雷で沈められるし。私も十九年に朝鮮に行った時、命拾いしたことがある。下関に行く汽車が遅れたのだが、もし時間通りに着いてたらもう一便早い船に乗っていたはずだ。その船は魚雷を受けて沈没してしまった。当時のこととて新聞にも出なかったが、五百何人かが犠牲になっている。
当時、東京の荷受組合は、湾内の海苔を一手に引き受けていたのだが、その頃の湾内の海苔生産量は二、三億枚ではなかったか。全国生産の半分は採っていたものだが、生産はどんどん減っていった。もう店も無くなっていたから、私は荷受組合の荷受部長に専念していた。配給を受けに来るのは小売屋だけで、問屋や荷受は一軒もない。問屋さんたちは、各地にある荷受の支所で働いていた。大森の支所では二十人くらいの海苔問屋さんが働いていた。荷受した海苔は各小売商組合に配給された。総合食品、海苔、茶の小売商組合に実績に応じて配給するのだが、みんな荷受組合に取りに来た。荷物は深川、堀留、茅場町などの荷受組合の支所に保管してあった。本部で伝票を切ると、それを持った小売商が支所に海苔を取りに行くというわけだ。そう、百貨店組合にも割り当てはあった。公定価格は、制定されてから終戦まで全然修正されなかった。戦後のインフレでやっと修正されたが。