海苔に命を懸けた男の一代記

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韓国海苔はライフワーク

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韓国海苔はライフワーク

大阪の一部の一組加盟の問屋に対する非難の声が起こり、これが二組、三組の誕生のキッカケになった。三十三年のことだ。当時、私に対する風当たりも強かった。宮永はあれだけ大損したのに、まだ懲りもせず一組の理事長なんかやって、しかも役所や政治家を動かしているという。そうではない、私は業界の皆さんのためにやっていたのだ。

話は前後するが、一組は三十一年に輸入協会にも加盟している。一組は通関実績がある。私は二足のわらじ、三足のわらじを履いているようにいわれたが、どこにでも口を出せるようにしておいた。実績があるから、インポーターでもあるし、問屋でもあるわけだ。伊藤忠にもいってやったが、「韓国側と折衝するのも、実際に買うのも宮永清じゃないか、君たちではできないから私がやるんだ。君たちはLCさえ組んでればいいのだ」と。現物を見て、値段を交渉して、それをみんな私がやるのだから……。

まあ、苦労もしたし損もしたけれども、私にしてみれば、韓国海苔は人が何といおうと、生い立ちからのライフワークなのだ。自分の力で育て輸入したのだという自負があり、執念がある。絶対に放せないではないか。随分酷いことをいう人もいた。「二組も三組もできたのに、何で韓国海苔のことになると、宮永のところに行くのだ」というようなことをいい触らすのだ。私はこと韓国海苔に関しては信念を持っていたから、そういう雑音は気にしなかった。

さて、二組は姫路乾物の金中勇太郎さんが理事長、大阪の中央乾物の桜井吉兵衛さんが副理事長、そして三組は上野の三五屋の清水五平さんがリーダーだった。桜井さんのお父さんには、私が平長時代にとても可愛がられた。桜井さんといえば、面白い話がある。たしか二十二年か二十三年のことだったと思うが、吉兵衛さんの奥さんが東京見物に来るというので、東京駅へ迎えに行った。寝台車から下りた奥さんが「初めまして」という。そして、お互いに顔を見合わせると、異口同音のように「あれっ?」というわけ。私は思わず「こいさんじゃないの」と叫んでしまった。奥さんは私が少年時代に勤めていた平長の隣の大きな塩ブリ問屋・脇萬の二番目の娘さんで、学校に通っている姿をよく見ていた。奥さんも「あら、清吉さん!」というわけ。まさか、あの脇萬のこいさんが吉兵衛さんの奥さんになっているとは思いもよらなかった。奥さんも「宮永さんが海苔業界で出世しているとは知っているが、平長の清どんだったとは」と驚く。奇遇というものはあるものだ。

平長の小僧時代によく知っていた隣の塩ブリ問屋・脇萬のお嬢さんが中央乾物の桜井吉兵衛さんの奥さんになっていて、何十年ぶりかに偶然出会うとは意外だったが、ここで塩ブリの話をしよう。今でこそ冷凍ものだけれど、昔は大阪では塩ブリをよく食べたものだ。サケは食べないけれど……。暮れになると、富山から塩ブリがどっさり入荷してくる。それは大変な量だった。脇萬は、そのブリの大問屋だったのだ。

さて、韓国海苔に話を戻そう。二組はできたが、桜井さんはあまり東京には出て来ずに、姫乾の金中君を立て、実務は専ら山谷の長谷川君、九段の増田君、両国の茅野君らに任せていた。また、三組では三五屋の清水君らが活躍したものだ。韓国海苔は三十二年の国内産不作の年に、例外的に二億枚入った以後は、ずっと一億枚に抑えられてしまった。とにかく全海苔漁連の庄司君の国会あたりでの反対運動は猛烈を極めた。自民党の五者会議でそう決まってしまったのだ。商社や問屋側は政治的に負けてしまったのだった。

私は、韓国海苔の輸入は国内産の増産の刺激剤になると考えていた。韓国海苔の輸入に反対するのなら、国内生産者はもっと増産することを考えたらいいじゃないか、そもそも国産では需要は賄えないから輸入せざるを得ないんだ、とね。とにかく、海苔をもっと作ることが先決じゃないかと随分力説したものだ。当時、つまり三十年前半といえば、国内産はせいぜい二十七、八億枚程度、三十億枚も採れれば上々の時代だった。

「庄司君、能書きいうよりももっと生産向上に努力すればいいじゃないか」といってやった。まして輸入額の三%を生産奨励金という名目で上前をはねるのだ。私は、消費者のため、問屋が生きていくためにも、海苔をもっと作れと訴えた。庄司君とは徹底的に渡り合ったものだが、彼は「宮永という男は転んでもただでは起きない人間だ。二組、三組ができても相変わらず値を決めるのは彼だし、配分もトップじゃないか」という。私は韓国海苔では儲けもしたが、大損もした。だから、業界のために何とか損が出ないように随分努力したつもりだ。しかも、三十四、五年になると韓国海苔はそれほど儲からなくなっていった。国内産が徐々に増産されるようになったからだ。

庄司君は、韓国海苔ではいわば好敵手だったが、実に頑固な人で、彼が死ぬまで喧嘩した形になってしまったが、信念を持った立派な人物だった。大したものだ。演説もうまかったしね……。