海苔に命を懸けた男の一代記

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東京海苔問屋組合戦後の歩み

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東京海苔問屋組合戦後の歩み

さてこのへんで話を戻し、東京海苔問屋組合の戦後の歩みについて少し話してみる。というのは、最近の人は当時のことを知らないし、いろいろ誤解もあるようだから……。

まず、終戦直後のことから話そう。昭和二十年五月二十五日の空襲で日本橋室町一帯はすっかり焼け野原になってしまった。当時の統制組合も焼けてしまって、われわれの溜まり場がなくなってしまった。仕方なく蠣殻町の岩崎さんのところ、つまり統制組合の蠣殻町支所が焼け残ったので、そこを一時組合事務所にした。今の富士銀行蠣殻町支店の脇を箱崎町の方に入ったところだが、どうも不便だった。そこで、山本泰介理事長に相談すると「うちの前蔵を直して使ったらどうか」といわれた。

前蔵は後に東京食品が使うことになるが、今の三越別館のあるところで、焼け落ちた鉄筋三階建てのビルだった。そこなら通うにも便利がいいというので、そこを使うことになった。そこで取りあえず統制組合の事務をとることになると、組合員も訪ねてくるようになった。そのうちに山本さんの店の裏側、今のドライブインのあるところが広く空いており、焼けているから更地だ。そこを借りて事務所を建てることになった。

しかし、焼け跡だから残土が山のようになっている。私達はまずその残土を片付けようと、リヤカーを引っ張って遠くまで捨てに行った。理事長は「材木はどうする」というので、私は「任せておきなさい」と胸を張った。というのは、私は農林省や林野局に顔が利くという自信があったからだ。そこで木材の配給切符の入手に奔走を始めた。幸い帝室林野局に私のまた従兄弟に当たる人が幹部になっている。帝室林野局は今のパレスホテルのところにあった。

その人に林野局に連れて行ってもらうと、「書類なんて後でいい。取り敢えず五十石の配給切符を上げよう」ということになった。有り難かった。五十石といえば相当な量だ。それに、切符さえあれば、ヤミの木材を買っても平気なのだ。早速、島藤建設に頼んで着工する運びになったが、それでは、その五十石で山本さんの店も私の家も作ってしまおうということになった。二十一年になると、公定価格で海苔を売る試販店というものを作ることになった。統制解除の前提だった。しかし、試販店となると、掘っ建て小屋というわけにはいかない。結局、私の家は後回しにして、先ず組合と山本さんの店から着工したわけだ。

さて、組合事務所建築用に五十石の木材配給切符を手にいれたが、一石というのは四寸角、二間半の柱が四本だから、五十石というのは柱二百本分という大した量だ。先ず、立派な組合事務所と山本さんの店が出来た。裏が組合、表通りが山本さんの店だ。組合事務所は広いので、その時はまだ存続していた小売組合も同居させた。小売組合は、大森の木下さんが専務だった。金魚屋さんをやっていた人だ。二十二年の統制解除とともに小売組合は解散したが、二十五年に大森組合が復活して分離・独立するまでは、東京、大森の組合が一つだったから随分大所帯だった。

当時、一番困ったことは、組合の資本金を増資することだった。二十二年に統制が解除になるので、資本を増強しなければならない。そこで、総会を開いて二千五百円の資本金を倍額の五千円にしようとした。さあ、大変だ。「宮永は、そんなことをしてわれわれを篩(ふるい)にかけるつもりか」というわけだ。事務所は出来た、統制も解除される。さあ、これからだ、という時だから、カネが要る。ましてや凄いインフレの最中だ。私は、事情を説明して増資はどうしても必要だといったが、組合員からは「われわれを除けるつもりか」といって、猛烈に叱られた。確かに当時の倍額増資の二千五百円は大金だ。

それに、まだ、信州あたりに疎開したまま帰って来ていない人もいたから無理もないかも知れない。かといっておカネはどうしても必要なので、増資に応じられない人は脱退とした。まあ、今でいう落ちこぼれだね。お蔭で「宮永は、酷い奴だ」といわれた。とにかく新円切り換えとか預金封鎖とか戦後の経済混乱期だからおカネに困っている組合員も多くて、新たな出資どころか、戦前の出資金すらも返しくれという人もいた。

とにかく、増資の一件は、随分苦労した。たった二千五百円で揉めるなんて、今の人は笑うかも知れないが……。当時の増資の領収書は今も取ってあるが、それを見ると、あの頃の苦労が思い出される。結局、増資は、一部の人を除いて払い込んでくれた。何しろ「この増資に応じてくれないと、これから海苔屋は出来ませんよ」といって脅かしたのだから……。増資に充てるカネを作るのに随分苦労した人も多かったと思う。

二十一年の中頃には、先に話した試販店が山本さん始め各地で開店した。もちろん、農林省、水産庁、東京都経済局の認可を受けてね。海苔は、私が集荷したが、主に浦安か木更津へんのものだった。価格は公定だったが、何にしろ猛烈なインフレだから三か月毎に役所に行って改定してもらったものだ。改定を申請して許可をもらわないと、ヤミになって罰せられるからだ。

いま、思い出しても、二十一、二年頃のインフレは凄まじいものがあった。新しい価格を申請して、許可が下りた時にはもう上がっているのだ。その頃、面白いことがあった。物価庁が「調整中」としたらいいというのだ。うまい言葉だ。「調整中」としておけば、高く売ってもヤミにはならない。二十一年まではヤミは喧しく取り締まられたが、二十二年になると、もうヤミだらけ。私も一時は随分引っ張られたが、「だって、物価庁が調整中といっているじゃないか」といっても、警視庁の連中にはなかなか判って貰えない。随分苦労したが、それが二十二年になると喧しくなくなってしまった。

ともかく、二十二年に統制が解除された時は、やれやれと思った。これでやっと自由な商売が出来る……と。二十五年に大森組合が分離独立するまで、市をやったりして組合の発展に全力を尽くした。市は、統制解除の翌年の二十三年から始めた。その頃、中央睦会という組織があって入札をやっていたが、城北の連中も負けじと入札を始めた。東京の問屋組合に四ブロックが出来たのは、二十三年の睦会結成が最初で、続いて城北、城西、城東と結成されていった。

城北が出来た経緯は、松葉町小善や山谷の長谷川が「中央睦会は威張り過ぎる」というのが理由だった。そして、二十四年には、東京海苔問屋業界でえらい騒ぎが持ち上がってしまった。城北の造反だった。東京組合の役員選挙をやったが、山本理事長だけが当選して、われわれは全員落選、城北の連中が役員を独占してしまった。城北の親分の松葉町が山谷と相談してやったことだった。四ブロックは、今でこそ組合の下部組織になっているが、当時は地区の親睦組織というか、まあ、地区別の派閥みたいなものだった。今でも睦会は名目上は残っていて、私が会長をやっている。

二十四年の城北の造反騒ぎは二か月くらい揉めた。理由は中央の横暴反対だったが、事実、中央は可なり横暴だった。中央は一番羽振りがいいし、城北は、当時そう有力な人がいなかったから、威勢のいい若手連中が決起したのだと思う。大森組合は分離独立したけれど、山本さんも発展してきて、裏の組合事務所を明け渡してほしいといわれた。その頃本町に葛浦さんの持ち家があったので、山本さんから組合の立ち退き料をもらって葛浦さんの家を買い、組合事務所にした。

その直前、富士銀行が増資するので、一万株を引き受けてくれないか、といってきた。私が引き受けると「組合員にカネに困っているものがいるのに、大銀行の株を買うなんて何事か」と随分怒られてしまったことがある。私も悪かったと思う。理事会にも諮らないで決めてしまったのだから、宮永のワンマンぶりにも程がある、ということだろう。

私も、それに違いないと思い、自分で負担しようと山本泰介理事長に相談すると、山本さんは「そんなことする必要ないさ。事後承諾でいいと思っていたといえばいいじゃないか。お前が頭を下げれば済むことだ」といった。温厚で太っ腹な人だった。山本さんのいうには「組合の財産を減らしたんなら良くないが、増やしたんじゃないか」というのだ。

五十円株の一万株だから五十万円だ。その時こそ大騒ぎしたが、後になったら大きな財産になった。その後、増資もあったし、無償もあったから四万株にもなった。もっとも、後の組合会館新築の時に一万株売ってしまったらしい。それを聞いた私は「冗談じゃないよ。君らは知らないだろうが、あの株は四十年も前に私が苦労して怒られ怒られして手に入れた株なんだ。黙って売るとは怪しからん」といってやった。執行部で決めたことなのだから、売ることはいいが、一言くらい挨拶があっても良かったじゃないか、というわけだ。ともかく、あれは曰くつきの株だった。