海苔に命を懸けた男の一代記
わが海苔人生
宮永 清
1950年頃 新車の前で
これは当社の創業者である宮永 清の半生記です。
よくある「経営者の自伝」なのですが、これが日本の海苔流通史そのもので、その人生も波乱万丈なので、結構面白い読み物になっています。
ところでその内容は、業界紙連載向けなので業界周辺の話題が中心なのですが、自社については「儲けた」という表現のみで、ほとんど触れていません。(笑)
なお、執筆から10年以上経過しているため、産地別の章など、一部現状と相違している部分もありますのでご了承下さい。
※文中に固有名詞が多く、また一部差別表現と受けとめられうる単語もありますが、そのまま掲載しております。何らかの問題がありましたら当社までご連絡下さい。
※出自は食品新聞社発行の海苔流通速報に1989年8月から翌年10月まで連載されたもので、食品新聞社様のご好意により転載させていただいております。
※宮永 清は1995年11月に死去しました。享年85歳
生い立ちから平長入りまで
私は、明治四十三年九月十五日、兵庫県加西(かさい)郡下里村三口(みくち)、今の加西市三口町で生まれた。私も、いつの間にか七十八歳、もう一年二か月すれば八十歳になる。人様には「元気だ、元気だ」といわれる […]
海苔との出会い
当時の平長は盛んなもので、店の前には馬力がズラッと並んでおり、店員も二十八人いた。さて、夜学にいく話だが、昼間精一杯働いているから体力がもたない。それでも夢中で働いた。平長のおやじも感心して「よく気 […]
平中商会の東京店へ
当時は、もちろんまだ建てヒビだから病気もつきやすい。そのうちに中野安太郎さんが藤楠さんに「おじいちゃん、もうこんな海苔を扱うのおやめなさい。ちっとも儲からないで、骨ばかり折れるものを」といって、朝鮮 […]
朝鮮海苔に青春を賭ける
そのうちだんだんと商売の面白さが分かってくる。そんな時、主人が朝鮮へ行かないかという。大阪は大判、東京は小判だが、当時朝鮮ものは小判が少ないから、何とかして朝鮮海苔の小判を増やすよう総監府の水産部 […]
昭和初期の東京海苔問屋業界
さて、このへんで話を本筋に戻そう。当時、朝鮮総督府の海苔指定商は二十二社あり、その殆どが日本の商社だったが、そのうち今でも残っているのは広島の国光さんと私だけになってしまった。六十年の歳月をしみじ […]
千葉に出張所網を展開
そんなことはおかしいではないかということで、私は朝鮮から帰ると間もなく運動を始めた。千葉県だって問屋組合が頑張っていて、なかなか思うように買えない。東京湾内海苔問屋組合連合会というのがあり、千葉、葛 […]
“切り”撤廃闘争に勝つ
その頃の平中は場違いの朝鮮も扱っていたけれど、出張所を十一か所も持った千葉産がどんどん多くなっていった。そして、扱い枚数はもう日本一になっていた。当時の上総ものは、上物で一帖十二~十三銭、二十銭なん […]
戦時統制時代に入る
その頃になると、日華事変が拡大して統制機運が出てきた。十五年になると平中も閉店せざるを得なくなり、ほかの店も十六年には全て店仕舞いの破目になってしまった。十五、六年になると、もうヤミをやる以外にない […]
空襲下の東京海苔問屋業界
さて、このへんで戦時中の思い出を話そう。昭和十八年には、まだ海苔屋さんは統制・配給の仕事に従事出来ていたが、十九年になると、みんな疎開を始めた。一人減り、二人減りしてそれこそ櫛の歯を引くように去って […]
終戦・海苔生産再開と東食設立
長く激しい戦争が終わって、スベ縄による海苔生産も始まった。さきにもいったが、スベ縄は芽付きはいいが、風には弱く、一年しか保たない。そうこうするうちに、東京食品(現・東食)を設立するという話が持ち上がっ […]
韓国海苔輸入再開と統制撤廃
では、そろそろ韓国海苔輸入の発端に入ろう。当時は、まだ政府の管理貿易だから、政府が輸入するのだ。しかし、その前に、韓国海苔輸入協会を作ろうと農林省に申請に行ったが、お前は兼職になるからダメだという。 […]
全国海苔問屋連合会を設立
二十五年頃になると、各地の問屋組合も続々復活してきたので、そろそろ全国連合会を作ろうじゃないかという話が持ち上がって来た。二十六年のことだったが、関西食糧新聞(現・食品新聞)が、山本泰介さんら全国のそ […]
人生観を変えた昭和27年、一億円の大損
私は、二十六年の韓国海苔が朝鮮動乱の余波で、予定の半分しか輸入出来なかったので大儲けをしたが、二十七年には大損をしてしまった。当時のカネで一億円だから実に痛かった。商社が集まって相談を始めた。 […]
波乱万丈の韓国海苔輸入
翌二十八年は、韓国が不作で、輸入は二億枚程度に減ってしまった。そして、二十九年になると、全海苔の庄司君(全国海苔貝類漁業協同組合理事長・庄司嘉氏)が大物政治家の川島正次郎氏らを担ぎ出し、猛烈な韓国 […]
韓国海苔はライフワーク
大阪の一部の一組加盟の問屋に対する非難の声が起こり、これが二組、三組の誕生のキッカケになった。三十三年のことだ。当時、私に対する風当たりも強かった。宮永はあれだけ大損したのに、まだ懲りもせず一組の […]
東京海苔問屋組合 戦後の歩み
さてこのへんで話を戻し、東京海苔問屋組合の戦後の歩みについて少し話してみる。というのは、最近の人は当時のことを知らないし、いろいろ誤解もあるようだから……。まず、終戦直後のことから話そう。昭和二十年 […]
東京組合 蛎殻町へ移る
元・葛浦さんの店の跡の組合事務所では、全海苔と協同で盛んに市を開いた。二十八年になると、蠣殻町に土地の売り物があるという話を聞いた。今の事務所が狭くなり、もうちょっと広いところが欲しい、と思ってい […]
各団体の長を務める
そうこうするうちに、三十九年だったか、九州海苔の破綻事故が起こり、連鎖反応で十何社かが倒産してしまった。これが戦後の海苔業界の一つの転機になったと思う。その頃、加工海苔業者も何もかも入れて韓国海 […]
今後の問題は中国海苔だ
まあ、私の目の黒いうちは二度とかつてのように韓国海苔が輸入されるようなことは無いだろうが、今後の問題は中国産の海苔だと思う。草目が良く、工賃も安く、素晴らしい。淅江省沿岸の海苔など、日本の海苔と同じ、 […]
九州海苔の歴史と思い出
まあ、苦言はこれ位にして、産地別の思い出話に移ろう。何といっても、戦後急成長した九州産地から取り上げよう。九州における海苔生産の歴史は、とても古い。私の聞いたところでは、明治の初年、大牟田付近で始 […]
三陸海苔の戦前・戦後
九州の話はこれくらいにして、その他の産地の思い出話に移ろう。まず、北の三陸から……。 戦前のことだが、私は早くから三陸の海苔を何とかしようと考えていた。ちょうどその頃互幸商会の片桐さんが […]
東京湾の戦前・戦後
次に東京に話題を移そう。湾内のことは今まで随分話したが、漏れたところを補足しておこう。まず、千葉の最盛期の思い出だが、それは東京の漁場がなくなった時点からではないだろうか。昭和三十七、八年のことだ。 […]
大森、品川、神奈川昔ばなし
さて、ここでもう少し大森の話をして見よう。私が上京した昭和初期の大森は、ヤマ十さん(島田由兵衛商店)の全盛時代で、それは大層な勢力だった。当主の由兵衛さんが大森の町長をやっていて、海苔業界だけでな […]
静岡と三州の海苔の思い出
次に静岡の思い出話に移ろう。静岡の海苔といえば、何といっても三保海苔だろう。三保の松原の海岸に海苔漁場があった。清水港が発展する昭和四、五年頃までは、そこで盛んに海苔を採っていた。桜田さんや片山さ […]
知多海苔の今昔
知多へ行くと、様子はガラッと変わる。とくに知多半島の西岸は、良い漁場が続いていた。木曽、長良、揖斐の三大河川が流れ込んでおり、その水が名古屋港の方へグルッと回流する。その潮流が海苔生産に実に好都合な […]
伊勢湾台風の被害を見舞う
昭和三十四年九月二十六日、愛知、三重など東海地方を襲った伊勢湾台風は、死者・行方不明五千二百余人を出す大災害となったが、この災害に、私は人生最大といっても良いくらいの思い出を持っている。当時の主力 […]
伊勢湾の海苔物語
ここで、伊勢湾の海苔について話しておこう。東大淀にしても村松にしても、中・南勢の海苔は、初めは色が良いのだが、味が落ちるのが早い。今一色もそうだったが、台風後はそれが見違えるように良くなった。生産者の […]
発展目ざましい兵庫海苔
次に兵庫県だが、昭和の初期にはまだ漁場らしいものは無く、飾磨だけで少し採っている程度だった。姫路市を流れる市川の河口沖合い付近で。もちろんヒビだった。当時、明石は塩田が盛んだったが、海苔はやってい […]
ここで海苔問屋に苦言
兵庫の海苔は、手巻きにしてもパリッとする。まあ、消費者向けのする海苔といっていいだろう。そのような海苔が採れるのは、やはり水質というか、潮がよく通るから丈夫なのだろう。病害も少ない。草そのものも丈夫な […]
中・四国の海苔漁場
海苔屋さんの近況に一言苦言を呈したところで、話を元に戻し、話し残した兵庫以西の漁場について話そう。
岡山、山口だが、岡山は、徳島や香川同様、戦後開拓された漁場だ。兵庫の海苔養殖が盛んになってから始まっ […]
海苔屋になって良かった
随分と長い海苔業界生活だったが、その間にはさまざまな思い出がある。どちらかというと、辛く苦しい思い出の方が多いが、もちろん、喜びもあった。まず、海苔屋になって良かったなあ、と思ったのは、やはり韓国海苔 […]
印象に残る先輩の方々
さて、この辺で、長い業界生活で巡り合った方々のうちで、とくに印象に残る方の何人かを思い出して私との関わりを話してみよう。まず、どなたよりも山本泰介さんだ。私の人生で忘れ得ぬ人、山本さんは、それはスケー […]
問屋の今日の姿に思うこと
解釈の仕方にもよるだろうが、問屋の力が無くなってしまった。小粒で平均化してしまったとでもいうのだろうか。前にもいったが、終戦直後、問屋を篩(ふるい)に掛けようとしたことがあった。その時は、随分怒られた […]
喜んで後継ぐ商売に
だから、問屋にしても小売屋にしても、倅が後を継ぎたがらないような魅力のない商売になってしまうのだ。このように海苔屋が増えて、そのみんなが儲からない。私は小僧の頃から海苔屋になったのだが、独立してから […]
業界は今こそ「平成革新」を!
第一線を退いた私のような年寄りが見ていても歯痒い思いをする。私の店もそうだが、海苔業界も世帯交替が進んでいる。しかし、やっていることは一向に今までと変わってはいない。変えたいのだろうが出来ないのだ。 […]
「わが海苔人生」連載を終わって
食品新聞社 中野 宏記
宮永清氏の「わが海苔人生」は連載九十回をもって完結した。平成元年八月一日に第一回が掲載されてから約一年二か月に及んだ。七十年近い長い […]